ダンスパーティ

「peace」というダンスイベントの舞台監督をした。(於札幌ジャスマックプラザ ザナドゥ)
社交・ジャズ・ヒップホップ・ブレイクと色々なダンスを映像でつなぐという構成。
バンドによるショータイムもあり、華やかなイベントだ。裏で進行を仕切りながら、再び舞台表現の時間ということについて考える。

ダンスには時間はない(これはほぼ間違いないように思える)。映画にも時間はない(本当だろうか)。

そう直感しながら、まだ言い当てられないもどかしさが募る。

どうアプローチすればいいのかわからないまま、検証抜きの箇条を並べる。

  • 演劇の時間は戯曲のストーリーによってつくられるのではない
  • 演劇に言葉が必要な理由は演劇が時間を使うものだからだ
  • 演劇の時間は「今・ここ」という虚構を暴くために存在する

最後のは、かなり自分よりの言葉だけど。

ギリシャ悲劇やキリスト教の聖史劇、能や歌舞伎、浄瑠璃、またビクトリア朝の演劇、あるいは19世紀末ロシア演劇、こうした過去の演劇は、その当時の観客にどう見られ、どう受け入れられていたのだろうか?テレビも新聞もインターネットも電話も郵便もない時代の演劇というメディアは人々にとって何だったのか?
私達は理と想像力によって、その過剰(欠落ではない)を埋めねばならない。

私が考える演劇論とは、この作業を未来に向けて行うことだ。身体・コミュニケーション・メディアといったものは、常に変化している。おそらく現代は、その変化が相対的に(絶対的にでは決してなく)大きな時代だ。その中で演劇という表現・メディア、芸能の変容を先取りすること。