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仕事の後、セカンドライフシアター稽古。3週間ぶり。
(この後「父と暮らせば」の内容に触れます。知りたくない方は注意)
父と暮らせば。2場、3場を読む。読んでもらった後、3場の
雨→唄→手紙→父娘のやり取り→手紙→唄→雨
という対称的な構造をホワイトボードで説明する。
父と娘が現在と原爆の落ちた時という二つの時間をいききしているのは何故か、という設問を立てる。
私の回答は、
「そうやって身体に自由を残しておかないと、
- 父との間にあったことは何なのか?
- 木下さんとはどうなるのか?
という疑問にたどり前に、劇(俳優と観客)がもちこたえられなくなるから。」
美津江が、なくなった福田さんにたいして抱いている後ろめたさを真正面から語ってしまえば、その重さで先には進めなくなってしまうだろう。そこで時間をとめてしまっては、その悲惨の先にある救済にたどりつけない。
二つの時間と、一人二役という仕掛けをたよりに、原爆という出来事に正確によりそいながらも、立ち止まらずに歩んでいく。重さ悲惨さの先にある希望(救い)に向かって劇は進むのである。もちろん、その手前にこの劇で一番重い主題が待っているのである。おそるべし井上ひさし。
理詰めで説明する私もそれを聞く3人の俳優もほぼずっと泣いている。昔は稽古場で泣くのはどうかとも思っていたが、馬鹿笑いするんだから泣いたっていいや。とか思うようになってからずいぶん楽になった。