病いの哲学

hommam2006-04-30


どうにも新刊書が欲しくなり、秘蔵の図書カードを持って書店に走る。買おうと思っていた柄谷行人がなく、これは我慢・買う必要はない、と自分に言い聞かせていた、病いの哲学〜小泉義之を買ってしまう。あっというまに読みつくす。

マルセルの『存在と所有』「形而上学日記」という書物をはじめて知る。以下、書中の引用の引用。

われわれが被造物に背を向けて神を愛することを、神はけっして望みはしない。被造物を通し、被造物から出発して神をたたえることこそ、神の意にかなうところである。

不随意性という概念を深くきわめてゆかなければならない。これは、被造物の被造性をもっとも根柢において構成しているものに対応する概念だと思われる。この観点から精神的な生を全体として定義して、それは、われわれが自分のなかの不随意の領分を少なくしてゆこうとする活動の総体である、と言えるのではないかと考えている。不随意なものであるということ、自分をなくてはならぬものとして感じたり判断したりするということと、この両者の間に結びつきがある。じっさい、この不随意性ということは、ある意味で自分自身に執着することと切り離せない。そしてここでいう自己執着は、自己愛といわれるものよりも、さらに原初的で根源的なものなのである。/死は、不随意性の絶対的な否定である。/私の勘では、重要な省察のかずかずを掘り出すべき坑道がここにある。

なんと晴れやかな言葉だろう。自分の身体が思い通りにいかないこと、それにもがき、超えようとすること、そして超えられないこと。それが生であり、思い通りにいかない身体を通して神を愛することが信仰だと語っているのだ。危うくキリスト教に入信しそうになる。

それにしても、小泉義之に救われるのはこれで三度目だ。私はこの人の言っていることの半分以上がわからない。この場合のわからないというのは理解できないということではなく、ここに書かれていることは間違いなく間違っていると感じるという意味だ。にもかかわらず抑うつのさなか、レヴィナス〜何のために生きるのか、を読んだことで、私は生か死かという問いをさっぱりと破棄することができた。子供になかなかあえなくなってから、生殖の哲学、を読み、その会えなさと折り合いをつけることを知った。そして、無信仰のまま祈ることの逡巡を、今日手に入れたこの本が流してくれた。

著者自身の言葉を引く。

答えは簡単だ。回復を願っているし回復を信じているからだ。もっと迫り上げて言っておこう。回復不可能なものの回復、治療不可能なものの治療、生存不可能なものの生存を信仰しているからだ。奇跡が到来することを願っているからだ。私は、死に淫する哲学に抗して、あるいは、死に淫する哲学がどうのこうの以前に、この信仰を選んでいる。

あまりにも乱暴な言葉だ。そして浪花節的だ。だが、この種の乱暴さ、浪花節を、私は求めていた。おそらく小泉義之は、哲学界のザ・ブルーハーツなのだ。と、ブルハ体験のない私が言ってみた。これも乱暴。感謝。