祈ること

フラニーとゾーイー」〜サリンジャーには「巡礼の道」という(架空の)書物が登場する。一人のロシア信者(巡礼)が聖書(テサロニケ前書)にある「絶えず祈れ」ということばのほんとうのところを知るために、旅をし、智者(スターレッツ)に会うという内容だ。

「それでね、スターレッツはまず第一にギリシャ正教の『イエスの祈り』のことを言うの。『主イエス・キリスト、我に憐れみを垂れたまえ』ここなのよ、問題はね。でね、スターレッツが説明するの、祈るときにはこの言葉を唱えるのが一番いいんだって。特に『憐れみ』という言葉が肝心なのね。だって、これ実に大きな言葉で、その中にはいっぱいいろんなことが含まれるわ。ただ単に『慈悲』っていうことだけじゃないわ」フラニーは、また言葉を切って、考えた。(中略)「とにかくね」と、彼女はまた話し出した「スターレッツがその巡礼に言うの、もしこの祈りを繰り返し繰り返し唱えていれば−初めは唇を動かしているだけでいいんですって−そのうち遂にはどうなるかというと、その祈りが自動性を持つようになるっていうの。」(中略)
「でも、大事な点はね−これがすばらしいんだ−これをやり始めた当座は、自分がやってることをべつに信じてやる必要はない。つまり、そんなことをやるのにどんなに抵抗を感じながらやるにしても、そんなことは全然かまわないってわけ。誰をも何をも侮辱することにはならないのよ。言いかえると、最初始めたときには、それを信じろなんて、誰もこれっぽちも要求しないんだ。自分で唱えていることについて考える必要もないなんて、スターレッツは言うのよ。最初に必要なのは量だけ。やがて、そのうちに量がひとりでに質になる。」
[フラニー 野崎孝 訳]

恋人と食事しながら、この話をつづけていたフラニーは、やがて、気を失う。レストランのバックヤードで気がついてのラストシーン。

「よし。すぐ戻ってくる。じっとしてるんだぜ」そう言って彼は部屋を出た。
一人取り残されたフラニーは、じっと横になったまま、天井を見つめていた。その唇が動き出すと、声のない言葉を語り始めた。そしてそのまま唇はいつまでも動き続けていた。

こうして、祈りへの「祈り」にとりつかれたシーモアと、彼女に働きかけようとする兄ゾーイー(彼は俳優である)の物語が、二年後に発表された(設定は二日後の)続編「ゾーイー」である。

端正な三人称描写の「フラニー」とうってかわり、「ゾーイー」は話者の冗長な前説−そこで話者は自分が、シーモア、ゾーイーの兄であるバディというほのめかしを行った後、グラース一家の説明を行う−から始まる。その後、小説は時間経過順に記述される。

  1. ゾーイーが兄バディからの手紙を浴槽で読むこと
  2. 母ベシーが風呂に入っているゾーイーの元に現れること
  3. 風呂上りのゾーイーと母の会話。フラニーのこと。特に巡礼の道についてのゾーイーの要約
  4. ラニーに対するゾーイーの戦い、第一部。
  5. ゾーイー、自殺した兄シーモアとバディの部屋で充電する。
  6. ゾーイー、バディと偽ってフラニーに電話する。最後の戦い。

電話の最中、フラニーはそれがバディではなくゾーイーであると気づく。手詰まりな雰囲気の中、ゾーイーの最後の努力が始まる。

ぼくは、きみにあれを唱えるのをやめさせようとしたつもりなかったと思うよ。少なくとも自分じゃそう思ってる。よく分からんがね。つまりぼくが頭でどんなことを考えたか、よく分からんのだ。けど、はっきり分かってることが一つある。ぼくには、あんなふうに、予見者みたいな口をきくのだけの権威はないってことさ。この家に予見者はもうたくさんだよ。そこんとこがぼくにはいやんだんだ。少し怖いんだよ。

予見者というのは、自殺した長兄シーモア(巡礼の道もまたシーモアの薫陶によるものだ)のことだろう。この直後の地の文−ト書きといいたくなるのだけれど−がすばらしい。

そこでちょっと言葉が切れたそのすきに、フラニーは、心持ち身体をのばした。しゃんとしていれば−姿勢をよくすれば−なんとなく、それだけの効果はあるといった、そんな感じだった。

ここからのゾーイーの言葉と、それに応接するフラニーの(言葉ではなく)姿は、何度読んでも心打たれる。そして、実をいうと、フラニーの心が晴れた理由が私にはうまく説明できない。

ゾーイーは妹に、俳優をやれよ、というのだ。

別段この言葉は唐突ではない。大学生であるシーモアが、一時期演劇をやっていたこと、演劇を取り巻く回りと自分のエゴにやりきれなくなって、やめてしまったことは、すでに「シーモア」であきらかにされているからだ。(060507続く⇒2006-05-14 - 「engeki」的5/14)