祈ることから演じることへ

(承前 2006-05-07 - 「engeki」的20060507)

神のために芝居をやれよ

きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら−神の女優になれよ、なりたいなら。

The only thing you can do now, the only religious thing you can do, is act. Act for God, if you want to -- be God's actress, if you want to.


兄バディからの電話を騙って、フラニーに電話をしたゾーイーは、その嘘がばれた後、こういう。
あと一つか二つごく簡単なことを言いたいだけだ。と前置きしてから。

きみはぼくとそっくり同じ畸形の養育を受けたわけだが、死んだときどんな髑髏になりたいか、そして、そこまで行くためには何をしなければならないか、それが今になってもまだわからないようなら−つまり、俳優だったら芝居をやるものなんだということがだな、今になってもまだわかってさえいないようだったらだよ、話をしたって無駄というもんじゃないだろうか?

You had the exact same goddem freakish upbringing I did, and if you don't know by this time what kind of skull you want when you're dead, and what you have to do to earn it -- I mean if you don't at least know by this time that if you're an actress you're supposed to act, then what's the use of talking?

lamb-chop division

グラース家は7人兄弟。上から順に、シーモア、バディ、ブーブー、ウォルト、ウェーカー、そしてゾーイーとフラニー。長兄のシーモアは自殺し、ウォルトは占領軍の一員として駐留した日本で事故死、この小説の時点で生き残っているのは5人だ。彼らは一人の例外もなく順番に「これは神童("It's a Wise Child")」というラジオ番組に順番に出演している。1927年から1943年、筆者に言わせるとチャールストンの時代からB17の時代に至る期間の間のことだ。アメリカのラジオ黄金期。そして、小説の時は1955年。作品中では触れられないが、ジェームズ・ディーンが交通事故でなくなった年、ディズニーランドがオープンした年だ。(作品の筆記は2年後の1957年と、作中でバディと思われる書き手が記している。)

ゾーイーはテレビの若手俳優。ハリウッドやブロードウェイ出身ではないが、第一線の主役級だ。小説の冒頭、ゾーイーが風呂場で読む手紙に兄バディはこう書いていた。

だが、俳優といっても君はどんな分野を選ぶんだ?そいつを考えたことがあるかね?映画か?
(この後、ハリウッド製の「おセンチ映画」あるいは、文芸映画に対する皮肉・当てこすりが続く。中略)
ところで演劇の分野にすすむとした場合、そこに果たして夢というものが抱けるかな。君は、本当に美しい舞台というものを−例えば『桜の園』なんかの本当に美しい舞台を、みたことがあるかい?
(チェホフの繊細さに見合った舞台などありはしないという断定。中略)
僕は君がえらく心配なんだよ、ゾーイー。いやに高調子な物言いになったが、それはとにかく悲観的なことばかり言ってすまないと思う。しかし、君というやつは一つ事から実に多くを期待する男だからな。僕は劇場で君と隣り合わせに座ったえらい経験を持っているが、演劇芸術というものから、君が、現代ではすでになくなっているものを期待している様子がはっきりと見えるような気がする。頼むから自重してくれたまえ。

この手紙の日付は1951年。物語の4年前だ。バディはこの手紙を書くにいたった小さな挿話を語っている。

こんなこと(手紙を書くこと:hommam注)を僕にやらせたのはだな、今日、ここのスーパーマーケットで経験したことが原因なんだ(行をあらためて書き出すほどの事じゃないんだよ。それほどうんざりはさせないから安心しろ)僕は、肉の売場の所に立って、店員が羊のあばら肉(ラムチョップ)を切ってくれるのを待っていた。若い母親と小さな女の子もそこに待っていたんだな。女の子は四つぐらいだったが、退屈まぎれに、ガラスのショーケースに背中をもたせかけて、僕のひげ面をじっと見上げるんだ。僕は彼女に、あなたは今日見た中でまず一番きれいな女の子だと言ってやった。その意味が彼女にわかったんだな。彼女はこっくりと頷いた。僕は彼女にはきっとボーイ・フレンドがいっぱいいるに違いないといった。すると彼女はまた同じように頷くんだよ。で、僕はボーイ・フレンドは何人かって訊いたんだ。彼女は指を二本差し出した。「二人!」と、僕は言ったね「そりゃまたずいぶんたくさんですねえ。その人たちのお名前はなんていうの、お嬢ちゃん」すると、彼女はつんざくような声で言ったんだ「ボビーとドロシー」ってね。僕は羊の肉をひっつかむと一散に駆け出したね。しかし、この手紙を書かしたのは、まさにこの出来事なんだ。(中略)いよいよ僕も君に手紙を書いて、なぜS(自殺したシーモアのこと:hommam注)と僕とが、あんなに早く、あんなに高飛車に、君とフラニーの教育を引き受けたのか、その理由を言ってやることができると思ったんだ。これまで僕達は一度も口に出して説明したことはなかったが、どちらかがそれをやるべきしおどきが来たと思うんだよ。

この後、手紙は、ゾーイーとフラニーに対して、長兄、次男のシーモアとバディが与えた(ゾーイーによれば)畸形的養育について語りだす。

スズキ博士(鈴木大拙のことだろう:hommam注)がどっかで言ってるよ−純粋意識の状態−サトリの境地−に入るということは、神が「光あれ」と言う前の、その神と合一することだって。シーモアもおれも、この光を、君とフラニーから、(少なくともおれたちにでき得る限り)遠ざけておいた方がよろしいとかんがえたんだ。その他、より低次な、より当世風な光源の数々−芸術、科学、古典、語学−これら全てをだな。君たち二人が、すべての光の根源を会得した境地というものを、少なくとも想定できるようになるまではさ。この境地のことを、一部もしくは全部知った人々−聖者、阿羅漢、菩薩、生前解脱者−こういった人たちについておれたちの知っている限りのことを、(というのは、おれたちにだって「限界」があるからな)言うだけでも言ってやったら、これはすばらしく建設的なことではないかと考えたんだ。つまり、君たちが、ジョージ・ワシントンと桜の木とか、「半島」の定義とか、分の分解説明法とかはもちろん、ブレイクもホイットマンも、いや、ホーマーやシェイクスピアについてすら、ほとんど、もしくは、全然知らないうちに、イエスや釈迦や老子シャンカラチャーリや慧能やスリ・ラーマクリシュナ等々の何たるかを、二人に知ってもらいたいと思ったんだ。とにかくこれが我々の妙案なるものだったのさ。

厳しいなあ。これで心がゆがまなかったらどうにかしている。この後、手紙はシーモアの自殺の後、どうしても実家に帰ることができなかった心境を語り、再び、この手紙の説明に戻る。

君たちの方も、ここ二、三年の間には、何度も、週末にこっちへ来たくらいじゃないか。僕たちは喋って喋って喋りまくったけれど、肝心なこと(シーモア自死をめぐる話題:hommam注)は一言も言わないという諒解ができていた。僕が本当に本音を吐きたくなったのは今日がはじめてだ。この手紙に深入りすればするほど、自分の確信を伝える勇気がくじけてくるな。しかし君に誓っていうけどね、今日の午後、あの子が自分のボーイ・フレンドの名前をボビーとドロシーだって、そう僕に言ったあの瞬間、僕は完全に伝達可能な真理のイメージ(ラムチョップ的イメージ)("little vision of truth (lamb-chop division)":原文hommam挿入)を掴んだことは間違いないんだ。シーモアがいつか言ったことがある−事もあろうに、市内のバスの中でだ−宗教をまともに勉強すれば、男と女、動物と石、昼と夜、暑さと寒さといったものの違い、この見かけだけの相違にとらわれないようになるはずだってさ。こいつがその肉の売場でいきなりパッと閃いたんだ。

そして、この一瞬のひらめきを、やはり、言葉に定着できなかったバディは、次のように手紙をしめくくる。

僕に間違いなく分かっているのは、君に知らせたい、胸の躍る楽しいことがあったってこと(スーパーでの女の子との会話のこと:hommam注)−せいぜい便箋一枚で、ダブル・スペースに打ってね(ほんの短いことだということ:hommam注)−それから、家に戻ったら、そいつが大半、いやそっくりなくなっちまって、形骸だけの真似事をするしか方がないということも分かったな。博士号や俳優の生活なんかの説教をするしかさ。メチャクチャだよな、滑稽だよな、シーモアがいたら、微笑を浮かべて浮かべて浮かべ続けるところだ−そうして、多分、僕に向かって、僕たちみんなに向かって、気にすることはないよと言うだろう。

もうよそう。芝居をやれよ、ザカリ・マーティン・グラース(ゾーイーの本名?芸名?:hommam注)どの、やりたいとき、やりたい所でさ。君はやらねばならぬと感じているんだから。しかし、全力をつくしてやることだ。君がもし、何でもいいから、美しいものを舞台でやるならば、なんとも名づけ難い、たのしくなるようなもの、演劇の技巧うんぬんを超越したものだな。そのときには、Sと二人で、タキシードと金ピカのオペラ・ハットを賃借して、金魚草の花束を持ってしずしずと楽屋口に行ってやるよ。とにかくだな、ささやかなものではあるが、僕の愛情と支持とを信じていてくれたまえ、いかに遠く離れておろうともだ。
バディ

「ゾーイー」のクライマックスは、バディからゾーイーにあてられたこの手紙を、ゾーイーからシーモアへの電話に変えて、繰り返しているように見える。(しかも最初ゾーイーはバディの名を騙るのだ。)

そこでは、何が繰り返されているのか?その繰り返しをささえているものは何か。そして、何が繰り返されないのか?

(続く⇒2006-05-16 - 「engeki」的5/16)