滑稽と歓待

目覚めてだらだらと反=日本語論〜蓮實重彦を読む。滑稽さに慣れ親しむことの残酷を思う。慣れ親しむという行為は磨耗化・ルーチン化することの極にある行為だ。だから、その滑稽のニュアンスやビミョーさにますます敏感になっていくからだが快くあるか、違和感をいやますのかは、個別の事例毎に、でたとこ勝負になっちまう。ほっておけば、それは、暴力の現場と化すかもしれぬ。これでは、あまりにもやりきれないので、そこには技術が必要だと言いたくなるのだが、その技術を権力と無関係に立ち上げることが、可能なのか。

そんなことを考えながら読むと、歓待が「掟」と書かれるしかない理由がわかった。歓待は、身体の管理運用(administration)の一つの典型なのだ。