演劇の定義(再掲)

演劇とは誰かが次の各要素を意識的に関連付けたものである。

  • 場所
  • 最低二人の人間(このうち見られる側を俳優・見る側を観客と呼ぶ)
  • 言葉

この定義を原初的、抽象的なものである、と私は記した。また、この場合の原初的とは、歴史としての起源をさすものでもないと記した。

とは言え、この定義は非現実的なものではない。人は(やる気さえあれば誰でも)この定義に従って、何らかの行為をなすことができる。

果たして、それは演劇であるか?

それは演劇である、というのが直感的で乱暴な答えなのだが、その返答を急ぐ前に、一般に演劇といわれているものはどういうものなのか、まずそれを考察しよう。

演劇とは何か?(一般的イメージ)

演劇とは以下のようなものであると一般には考えられている。

  • 人が何かを演じる(上演:この何かは戯曲であることが多いが必ずしもあらかじめ決まったものであるとは限らない)。この行為を観客にみせる。
  • 上演がいつどこで行われるかはこれに先立って告知されている。

こうした演劇を「興行型演劇」と呼ぶことにする。
「興行」という語には「チケットを売る」というニュアンスが含まれるが、ここでは「上演主体が準備した作品を時・所を告知した上で実現する」あり方を指している。この条件は次の2点を大きな前提としていることに注意されたい。

  • 上演の前から観客と上演主体は区別されていること
  • 作品の成立する時間と場所があらかじめ宣言されていること

現在日本で見られる多くの演劇がこの形式である。

あるいは、これ以外に演劇がありえるのか?と考える方もいるだろう。実際に興行型ではない演劇は存在する。以下札幌の例である。

この二つはともに即興系の演劇である。ここでは、観客・俳優という構造ではなく、コーチと参加者という構造が採用される。これらの行為は「ワークショップ」とくくられることが多い。ワークショップは演劇ではない、と感じる方はそれが何故なのかを考えてもらいたい。それは確かに興行型演劇ではないが、ではそれは演劇ではないのか?

確かに、「演劇」という語は「劇を演ずる」と分解される。この定義で十分なのかもしれない。だが私はこの試行において、演劇概念の再構築を目指している。それは興行型演劇の否定を意味しない。

演劇ワークショップが演劇を補完・活性化するという考え方にも私は同意できない。私の認識は、興行型演劇が最早、限界に来ているというものだ。それは興行型演劇の消滅を意味しない。成功する興行型演劇はこれからも増え続けるだろう。代わりに失うのは演劇の多様性である。少なくとも札幌においては、それは急速に失われつつある。

一方、私はワークショップこそ新しい演劇の姿だと主張したいのでもない。特に近年流行の身体回帰ともいえる現象を背景にしたワークショップブームには、やや危険なものを感じている。

いささか話題が脱線した。戻す。

演劇とは何か?(一般的イメージ:再掲)

演劇とは以下のようなものであると一般には考えられている。

  • 人が何かを演じる(上演:この何かは戯曲であることが多いが必ずしもあらかじめ決まったものであるとは限らない)。この行為を観客にみせる。
  • 上演がいつどこで行われるかはこれに先立って告知されている。

こうした演劇の形態を興行型演劇と呼ぶ。

興行型演劇が現在直面している問題

興行型演劇は代理システムという壁にぶつかっている。これが、演劇の多様性を殺すものなのだ。
それは、観客が演劇に求めるものが「代理行為」であり、演劇がその要求にやすやすと答えてしまうということである。

北海道・札幌においては、演劇をやりたい、俳優になりたい、と考える人間の多くが実際の演劇を知らない。観たことがない。これは劇団主宰として、あるいはいくつかの演劇ワークショップを通じての私の経験である。おそらく、これは北海道に限定した話しではなく、大多数の地方がそうであろう。

ところが、こうした人間は演劇についてのイメージはもっている。(そもそもイメージを持っているからこそ演劇をやりたいと思うのであろうが。)

彼彼女らの演劇に対するイメージはどこから来ているかというとテレビドラマである。

  • 観客は自分の知らない・経験し得ない情報、世界、感情、出来事、物語等々を作品を通じて知り、経験する(第一の代理)。
  • その世界の中で自分とは違う役を演じることが演技である(第二の代理)

いわゆる情報エンターテインメント番組などは、視聴者に問題を提起するのではなく、生活ツールとしての情報を提供するという点で見事な代理システムを構築している。(第一の代理の意味で)

では何が代理されているのか?それは私もしくは私の属する共同体の志向・試行・嗜好・思考である。そして代理の出来不出来はそのスピードと印象深さによって決まる。

国政という代理システムを例にとる。憲法で、日本の国政は代表代理システムで行うと規定されている。しかし、この代理システムがあまりうまく機能していないと私達は感じている。私達はどこかの段階で現在の国会に、したがって、そこから代表し代理された内閣に国政を委託している。しかし一方で私達はことあるごとに政府の政策に反発を感じ、政府の(したがって私達の)選選択に対して、あれは失敗だ、などと実感する。では私達は現在の代理人たちを変更するかというと、そうそう変更しないのだ。

何故か?国政が実に大変な作業だからだ。考えなければいけないことの一つ一つに高度な専門的知識が必要だからだ。例えば、本当に地球は温暖化するのか、温暖化したとしてそれは地球環境に影響があるのか、あったとしてそれは日本または人類または地球にとって不利益なことなのか、ということを私は判断できない。私にも意見はある。しかしそれは意見というよりは印象であり、また、個人的な心象でしかない。そして、その印象や心象から判断を下す覚悟はない。覚悟がないのは、(1)判断するだけの調査時間がない(2)調査抜きで判断したとしてそのことに責任をもてない、からだ。

(挿入)私は今、こうやって演劇について文章をつづり、そしていくつもの判断をしながら書き続けているが、それは、私が演劇については多少の知識があり、調査もしていること、将来にわたって演劇にかかわるつもりであり、したがって、私が誤った判断をした場合の覚悟を持っているからだ。

さて、地球温暖化について上述したのは、「私は専門家ではないので責任ある判断ができない」ということだが、しかし、専門家の意見もばらばらである。そしてどの専門家が信じるに足るのか、それは結局私の印象・心象によるしかなく、その判断にも私は責任をもてない。

さらに、国政の対象は地球温暖化問題だけではなく、内政外政さまざまにあり、しかもそれらを時間も資源(お金・人etc)も限られた中でやらねばならず、したがって、私にはとても整合性の取れた政策の全体像を責任をもって提出することはできない。

だからこそ私達は、国政の専門家としての議員を選出し、彼らに政治を委託するわけだが、そこでも(マニュフェストがあろうがなかろうが)印象・心象によって、えいやと議員・政党を選ぶしかない。ただし、この段階では(国政参加を降りるという選択も含めて)私達は非常に薄い覚悟をしている筈だ。

薄いというのは責任感をほとんど感じずに、という意味だが、あるとき突然国政が人の生き死にかかわり出すと、一人一人が薄く分け合っていた責任と人の命というものが正面から対峙してしまい、非常にヒステリックな反応があたりを覆う。

このようなことをつい最近私達は経験した。が、私達はそれでも、薄い責任・覚悟を持って選挙という形態で(逃避や降りることも含め)国政に参加し、その一方で具体的な不公平・不正・あるいは個人的に許しえないこと・必要なことについて発言・行動していくしかない。しかし、このことに違和感や齟齬感を感じている。というのは、現行の代理システムにはスピードも印象深さ(見た目のわかりやすさ)もないからだ。そうしたものが、あれば国政が本質的に良くなるということではない。私達の違和感や齟齬感の拠ってくるところが遅さとわかりにくさではないか、ということだ。

上の階層に戻る
さて、テレビに戻る。テレビはこのスピードと印象深さを非常に大切にしている。見た瞬間にわかること、その瞬間の印象にかけること。これがテレビという代理システム(テレビ全てが代理システムであると主張しているのではない)の本質である。この点にかけて日本のテレビ局の技術と志の高さは比類ないものだ。私達はテレビの(ある種の)番組をみて、その瞬間の充実と印象深さを享受し、情報や思考を充填する。そして次の日には、その充実と充填が私のみならず共同体のものであることを確認するため、同僚とその番組について語り、スーパーで昨日紹介された食材を買うのだ。

更に上の階層に戻る
そして演劇に戻る。このような代理システムをモデルとする興行型演劇は一体どこに行くのか?

テーマパークに行き着くのだ。その瞬間の充実・印象深さ、共同体内での確認としての感想作業。これは既に東京ディズニーリゾート、ユニバーサルスタジオジャパン、その他のテーマパークで実現されていることだ。こうしたテーマパークには演劇のもつ直接性・同時性が(ある観点において)最良の形で現れている。そうテーマパークとは興行型演劇の頂点の一つである。(念のため書き添えるが、これはテーマパークの否定ではない。)

そして、エンターテインメント志向の演劇の多くがこの方向を目指している。代理システムである以上、目指さざるを得ないとも言える。言うまでもないことだが、演劇が多様性を失いつつあるとは、こうした現象のことを指す。

現実には、全ての演劇が上演の最中の消費・咀嚼と事後の共同体的確認をよしとするわけではないので、そうでない志向の演劇は別の戦略を立てることになる。だが、とられている戦略の多くが「金銭的基盤(主に助成金)のために、自らの演劇の現代的意義を宣伝する」ことである。そしてこの時、意義の宣伝は演劇論であると同時に、助成金獲得という現実的な目的があるため、分かりやすさを志向する。

「ともかく現代社会の中での演劇の効用を説かねばならない。
演劇とは何か。身体とコミュニケーションを扱う芸術だ。現代社会の問題とは何か?身体の問題であり、コミュニケーションの問題だ。したがって、(この)演劇は現代において意義があり、効用を持つ。」
私も何度も使ったことのある論理である。

こうした議論が戦略として意識されているうちはかまわない。また、この議論は決して屁理屈ではない。ある観点からみれば現代社会は身体不在とコミュニケーション不全という問題を抱えており、演劇は確かにその対処方法を教えてくれる。しかし、これはあくまでも「ある観点」においてである。しかし人は自分が「ある観点」に立っていることをたやすく忘れてしまう。また「ある観点」を暗黙の前提としているうち、これが全く見えなくなることがある。するとどうなるか?総体として、代理システムを最良のモデルとして、それを補完するために、ということは、そのモデルをもっとも良く機能させるために、別種の演劇を利用するという図式が残る事になる。このまとめもあまりに図式的であるが、事実札幌ではそうした構図がこの数年でまとまりつつある。

繰り返すが、求めるのは演劇の多様化である。無論、ここに記している私は演劇の実作者であるから、多様化といってもその中に自分自身の演劇のビジョンがある。以降の考察でそのビジョンはより大きなウェイトを占めていくだろう。そして、そうしたビジョンをもっている以上、これまでの、また、これからの考察がルサンチマンから発している、別の言葉で言えばワナビーのたわごとである可能性は常にはらんでいる。例えば、私は今回の考察の中で興行型演劇、代理システム、テーマパークなどを否定しないと何回か書いたが、それが本当は否定したいという気持ちの裏返しである可能性を認める(私はこれを判定できない)。認めた上で、未来に向けて演劇を開放することがこの試論の目的であることを記しておきたい。