「森田療法」における一エピソード(長い前置き付き)

森田療法 (講談社現代新書)
岩井寛「森田療法」講談社現代新書を読む。「あるがまま」について考えるためだ。

おそらく、身体的直感は肯定的な形で訪れることが多く、一方意識的直感は否定的な形で訪れることが多いのだろう。

今の身体が、新しい身体を直感し、演劇という運動を志向するとき、意識(言語)は、それを「今ここにない身体」と否定形に翻訳する。否定は充填を望むので、まさにその位置に「正しくて豊かな身体」というフィクションが裏打ちされる。

例えば以下のような主張がある

「現代生活において、身体はその可能性・可塑性をまったく失ってしまった。意識と自然をつなぐモノとして、また、思想と感情の生成するコトとしての身体は、現代社会の複雑さをいわば、影法師のように引き受けてしまうことで、乾涸びた実在に疎外されてしまった。このカラダを再び我々の身体とするために、演劇は甦らなければならない*1

が、私達は「失われた」「本当の」身体などあるのか?と疑わねばならない。

確かに、子供向けのワークショップなどに参加すると、現在の子供の固さ脆さ細さってどうよ、と実感する。そして、ワークショップが進むにつれ楽しそうにはしゃぐ子供の姿に、ああ、これが本来の子供の姿だよなあ、と素朴な感動*2も受ける。

けれど、私達が責任をもって語れるのは、精々数十年前の身体と今の身体の間の差異でしかない。その二点を結んで乱暴に過去にのばした先に「本当の身体」があるわけがない。

といって、現在の身体を全肯定するところから演劇は始まらない。既に私達の身体は演劇を志向しているのだ。その志向に目をつぶって、無条件に現在の身体を賞賛することは、演劇に向かっている身体の直感を知らず知らず裏切ってしまう。

整理すると、課題はこうである。演劇を「本来の身体」という仮設なしに行うこと。しかも、演劇を志向する、私達の身体を裏切らないこと。

森田療法の「あるがまま」という概念を検討することで、いわば演劇にとっての「あるがままの身体」を発見できるだろうか。これが僕の考えていたことだ。

実は森田療法については、一種いかがわしいイメージをもっていた(いる)。上に書いたフィクション(例えば「本来の心身」)を思想の核心としているのではないかというイメージだ。同じようないかがわしさは野口体操にも、メソッド演技にも持っている(いた)。

メソッドについては、マイケル・チェホフが案内の人だったように、森田療法については大澤真幸が案内の人だった。この二人はともに、それぞれの思想圏を、失われた本当の身体への「旅の物語」ではなく、振幅し往還する運動という立場で案内してくれたのである。

だから物語を、実践で読み越えていく*3、そういう問題意識をもって本書を開いたのであった。

が、(と、やっと、ここから本題である)まず私を捉えたのは、著者岩井寛自身の経験談であった。子供が欲しかったが4回流産を経験し、5回目にやっと生まれた子供も生後3日でなくなった。という挿話である。新書の45ページ「筆者自身の体験例(2)」を是非読んで欲しい。できれば47ページ1行目まで読んで、そこで一旦本を閉じ、岩井の心境を想像してから47ページ2行目以降を読んで欲しい。

告白します。泣きました。それも地下鉄で。新書を読んで泣いたのは初めてではないだろうか。

それでも演劇家の悲しい習癖で、「これ、『父親・男子サラリーマンのための演劇講座*4』のメイン・エクササイズに使えるな」などと考えてしまった。

45ページから47ページ1行目までをコピーし、どんな形でもいいから一人芝居をする。発表が終わり、ディスカッションを行った後、47ページ2行目以降を配布するのだ。*5

さて「森田療法」で泣けた方は、続いて、191ページからの「おわりに」を読んでください。そして最後に先頭にある松岡正剛*6の書いた文章を読んでください。多分、あなたは本を買ってしまう。買わざるを得ない。

*7

*1:今適当に書いた

*2:この素朴な感動というのがくせものだ

*3:唐突だが、宮澤賢治が「銀河鉄道の夜」で用いた「ほんとうのほんとうの」という繰り返しは、この読み越えへの意志の表明に他ならない。そして、それもまた言葉であることの痛ましさが、作家本人に同席したような切実を生んでいる

*4:近い将来に是非やりたい企画

*5:ちょっとあざとい組み立てかもしれない。エクササイズの目的が真相の究明ではないことを強調する必要がある。

*6:この人もかなりいかがわしい人だけど(warai

*7:と以上の文章によって、私は「著作権法違反」もしくはその「幇助」を行ったことになるだろか?