怒鳴る

勤め先で怒鳴り声を聞く。
自分にも関連していることなので、無視できない。うーん、うーん、と思いながら怒鳴り声の現場に身体を運ぶ。
怒っている人は少しバイアスをかけて怒っている。吐き出される言葉は全て正論だ。というか自分が正論しかいえない状況を打破しようとバイアスをかけて怒鳴っているのだ。
こういうときの「すみません」も「頑張ります」も「気をつけます」もむなしい。むなしいが、その一言がなければ、収拾もない。
収拾のつかないことについて怒鳴られ、仕方ないなあ(これは怒鳴っている人への揶揄ではない)と思いながら、怒鳴りを出来せしめた状況がこれで改善されることを願っている僕の身体はそのとき、その場所から少しはみ出ている。
頭のいい身体はそれを知っているから、運ばれるのに「うーん、うーん」を必要としたのだ。日常の中にほとんど全ての身体性があらわになっているのに、いまさら演劇が何をできるのだろう。指し示すこと?
おそらくドラマが必要なのはこの一点(演劇の可能性)においてであり、だから物語の発明は人間の自然に対する倒立を、倒立と名指すこと自体がその「倒立」隠蔽になる次元にまで推し進めたのだろう。