水戸黄門的読書

夜、酒を飲みながら、音楽の根源にあるもの〜小泉文夫を読む。わらべうたや民謡、民族音楽のフィールドワークの現場から一気呵成に、西欧中心主義の(音楽)教育への疑義へと駆け上がっていく文章をノリツッコミで楽しみながら読む。私の頭、身体がこういう考えかたにどっぷりつかって形成されてきたからだろう。懐かしい読書だ。ぶんしょうの流れを失うことがないから、細かい風景をリラックスして楽しむことができる。

  • 本来、一民族に一つの歌しかない。一人に一つの歌しかないのだという仮説
  • アメリ東海岸ではじゃんけんの「あいこでしょ」がI canna(cannot) show!と発音されている発見
  • ヤミ族の歌に高い音と低い音の二つしかない(しかも音程は一人一人ばらばら)という事実

そんなあれやこれやを一つずつ確かめるように読む。時代劇を見ている感覚に近いように思う。

対極にあるのが吉本隆明。この数日マチウ書試論を読んでいる。わからない。そのわからなさは、同一化のできなさによっている。一文一文に理解、共感、同意、反論できても、それがパラグラフとなり、章となっていく中で意味も情感も追えなくなって、迷う。一語一句一文がわからない読書とはまた別の不可解さ。

けれど吉本隆明の「わたし」を手放さず進む姿勢は貴重だ。大澤真幸アフターダーク論が『人称「わたしたち」』を主題にたてながら、批評的散文が多用する「わたしたち」の自明性に無自覚なように感じて以来、散文における書き手(語り手とは少し違うし、作者個人でもない)の位置ということがらに意識が向かう。


吉本隆明⇒マチウ書の作者⇒マチウ(マタイ)⇒ジェジュ(イエス)⇒読者

こうした構図を頭に描きながら読む。「ゾーイー」を読みながら書いている文章に作者、語り手、登場人物、読者、私の奇妙な繰り返しが現れてきたせいもある。