久しぶり

インターネットカフェ
町田康布袋寅泰とけんか?
エイプリルフールかと思ったぞ。

太田省吾が死に、地震で高齢者が死に、青森の祖父が死に、韓国人の牧師が死んだ(のか?)。

祖父の葬儀で、老和尚の念仏を聞きながら、だだもれしてくる彼の思念を聞いた。もちろんそれは、私の妄想というか幻聴なのだが、和尚は、自分の横で、ひときわ響く声で念仏を唱え鳴り物を鳴らす坊主に追い立てられているように感じ、俗世間の生活を思いながら小さな声で唱え、喝を打ち、ひたすら、悲しさのことを考えていた。人が死ぬことが悲しいのではない、こうやって念仏を唱えていることの悲しさだ。その声、それは、和尚の声でも、横の坊主の声でもなかったが、その声が、とても正しいこと、とてもぴったりであること、それが和尚には悲しかった。世の中の人が「花がきれいです」といったとき、その「花」という言葉が、ほんとうに目の前にある、その花とぴったりと一致していて、その「きれい」という言葉が、まさに、そう口にしたときに心に浮かんだ気持ちの、そのままのそのとおりの形だったとしたら。それは、ひどく悲しいことではないだろうか。和尚はそんなことを考えていた。書いている今、確かに私は言葉を選んでいるが、つくりばなしをしているのではなく、たしかに和尚の考えている、そうしたことを聞いた。それにしても、その悲しさを悲しんでいるのは誰なのだ。私ではない、仏でもない。言葉、そのものが悲しんでいるわけでもない。

その悲しさを悲しむのは誰だろう。和尚と一緒に考えているうちに、葬儀は終わってしまった。

地震のせいで、日本海回りで帰れず、弘前から東京に深夜バス、そこから新幹線で大阪に戻った。渋谷のシネフロントでvolver<帰郷>を見た。Hの葬儀のときは、九州の友人が札幌の映画館でミリオンダラー・ベイビーを見て、啓示を受けたのだった。近しい人を失ったときに見る映画は、確かにそうしたものらしい。

とても、いい映画だった。最初から最後まで風が吹いていた。人は人を殺せるのだと思った。そういう能力を、そういいたければ、神様が与えてくださったのだ。いや、むしろ、人には人を殺す義務があり、弔い償う権利がある。運命というものがあるとするなら、それしかない。と、そのようなことを異常に前のめりに心に刻み、新幹線で飲みつぶれた。

Quiero bailar contigo

スペイン(語)への思いがどんどん募っていくな。