夏の記録

7/18

午前10時ごろ、祖父が亡くなる。

7/20

17時過ぎの新幹線で青森へ。地震の影響で日本海回りの寝台は運行中止。大宮で人身事故があり、東北新幹線が遅れる。1時間遅れで八戸に。乗り継ぎの特急つがるも発車を遅らせており、25時に青森着。駅前のホテル泊。

7/21

五能線鯵ヶ沢。11時から告別式。顔をみたいと思っていたのだが、前日に焼かれていた。父親ですら、初めて会う親戚が多数。「マキ(巻)」が変わった、という。マキとは(優位な)血族を意味する言葉とのこと。DNAという語の最近のニュアンスに近い。祖母は祖父の二人目の妻で、父の生みの母ではない。告別式後の会食で祖母に「これで、おじいちゃん、××(なくなった先妻)と一緒に暮らせるね」と挨拶する婆のいるような土地で、これからは、いよいよ祖母方のマキになる。というようなことが話されているらしい(回りの会話はほとんど聞き取れない)。夕方、父と辞す。弘前へ。父はここで一泊し、朝一の飛行機に乗る。私は新宿までの夜行バス。弘前で、父の実母方の従姉妹の店に行く。こちらも初めて会う親戚&こちらは聞き取れる言葉で、やはりマキ替りの話題。

7/22

6時半に新宿着。渋谷で映画。volver<帰郷>。冒頭のシーンで、あれはてっきり3姉妹だろうと思っていたのだが、それが伏線だったので驚いた。というのは深読みしすぎかもしれない。
隣人の太っちょの女。のリアリティのバランスを考える。彼女がいないと、埋葬のくだりが嘘っぽくなる。のであの太さは必然なのだが、それにしてもきれいな太り方だ。ああ芝居してえなあ。
映画の前に府中競馬場に行った。ヨーロピアンなホテルみたいでびっくりした。行き帰りの京王線の中には、背中を出した女の人がたくさんいる。特に目を引いたのが、鸚鵡の刺青の入った肩とたくさんの柔毛が生えているうなじ。ぺろり、となめてみたい。けしてぺろぺろではなく、ぺろりなのだが、本当にやると変態てか犯罪なので、うんと踏みとどまる。始末ニ悪イ不良中年、チュウネン・テリブル!
渋谷の街頭では、モビルスーツみたいな名前の、ミュージシャンと称する人が、街頭宣伝カーに乗っている。ラップでもフォークでもないような音楽を流し、歌いながら、大企業と権力をぶっ潰せと叫ぶ。むしょうにぶん殴りたくなる。

7/23〜7/29

何をしていたのか思い出せない。仕事していた。手帳を見ると、23日夜不在者投票に行き、24日は扇町プールで泳いでいた。
CON10PO〜スチャダラパーとLast Date〜Eric Dolphyを繰り返し聞いた。どちらも尽くす音楽。言い尽くし、吹き尽くす。追悼のつもりで何冊も借りた太田省吾が、2番のない歌はない。と書いていたことを思い出す。言っても言ってもいいたりない。吹いても吹いてもふきたりない。

これだけの数の歌が、みな二番が要るとしているとすると、この言いたりないという気持ちは、歌の基本的な動機なのではないかと思えてくる。歌は、歌いたいことを歌うだけのものではなく、どうやら、言いたりなさの歌であるらしい。
この地上に生まれ、生きている間だけ生きている存在が、自分の小さな心の動きすらつかみかねているとすれば、わたしたちは言いたりなさを捨てて生きられはしない。歌は二番がどうしても要るらしい。
(「仕事の周辺」舞台の水〜太田省吾)

ところで日本国の国歌には二番はなかったのではないか。BD発言を聞き笑いながら寝て、You Don't Know What Love Isを聞き目覚める。

7/30〜8/5

この週も覚えがない。31日に泳いだのではないかと思うが、手帳に記録なし。4日に府立図書館に行き、5日は泳いだ。短編名作集 補陀落渡海記〜井上靖を読む。補陀落渡海記はかつて読んだときのようには心に届かなかった。鬼の話がしみた。自分の心の変遷の分かりやすさをものがたってあまりある。夏休み、屋外プールに人が流れたのか、屋内はむしろすいている。プレッシャーも感じず1キロ泳ぐ。毎日これぐらい泳げるといいのに。帰り、5ヶ月ぶりに息子のメール。生きていかなくては。
日曜の夜、両親と一緒にN響アワーを見る。アシュケナージがベートーベンの第七番を振る。父も私も大好きな曲。中音部が非常にクリアに聞こえ曲全体の動きがびんびん伝わってき興奮。じいさんとおっさんブラボー。

8/7

東京出張。半年前には、半年後の自分がこれほど新幹線に乗ることになるとは思ってもいなかった。ソラリスの陽のもとに〜スタニスワフ・レムを再読。こんなにあっさりしたオハナシだったか、と拍子抜けする。いつの間にやらタルコフスキーの映画や、また、それを手がかりにストーカーのあのイメージが塗されていたらしい。昼休み、深川不動尊にたちよる。演歌歌手が境内で歌っていた。きれい。ミーティングは大いにストレスがたまる。自意識の強い人間は会議に出ては駄目だなあと思い、黙っている。黙っているうちに、黙っていていいのかという気持ちになり、ついに口を出す。口を出すと、いつものように、口だけがしゃべってしまう。高校生の時からの繰り返しだ。

8/11

枚方市中央図書館に。俳優の領分 中村伸郎と昭和の劇作家たち〜如月小春を借りる。労作だった。長生きしてほしかった。坪内逍遥の「ページェント」と「家庭用児童劇」に思いを馳せる。何せ後者の三綱領が「簡単、純朴、無邪気」なのである。いいなあ。演技において語りえないもの、との付き合い方、ということにも思いを馳せる。如月小春は、中村伸郎に演劇人としての気持ちの良い敬意を払っていて、同時にそれが「俳優の領分」への、あと一歩を踏み出させていない。298ページ以降が、それにあたる。ここで、如月小春は「たたずむ」という言葉を使って、中村伸郎の到達を書くが、それは、中村伸郎の演技そのものには、かなわないことがあらかじめ分かった道筋だ。

彼の演技は、岸田國士の演劇論がそうであるように、あるいは小津や三島の作品がそうであるように、一つの思想である。言葉に置きかえることの困難な、だが確かに人間の生の真実を射抜く思想であると私は思う。そして中村の思想は、何よりもその「たたずむ」演技態の中にあった。それは、決して多いとはいえない観客を前にして静かに、ささやかに表明された思想だったが、見るものを震撼させずにはおかなかった。少なくとも私にとっては、今、日本で見ることの出来る、最前衛の演技態が、新劇俳優中村伸郎だったと言っても過言ではない。

こう、書き写して、筆が逡巡しているのがよく分かる。作者がすばるでの連載後、手を入れるため公刊しなかったのもうなづける。演出は、良い演技や、俳優に出会ったとき、まず、言葉を失うべきである。それは、演出家としての最低限の感性だ。演出家は、その驚きの地平から、どう出発するか、をはじめる。ここでの如月小春は、その地平に、まだいる。演出家にとっての俳優は、いってみれば、大自然のようなものだ。でっかいなあ、すげえなあ、なんて気持ちがいいのだろう、あんなにささやかなことが。そして、そこで完結しても、新たな演劇は生まれない。もちろん、そこで完結しても演劇は、ある、あり続ける。
ここで完結したい作家ではなかっただろう、そう思うと、このくだりは、書かれてあることの内容ともども、非常に痛ましい。

8/12

扇町プール。今日も人は少ない。帰り、天満駅のホームで、マクドナルドの100円ポークをかじりながら、えびすの緑缶。贅沢な夏の夕方。

8/13

今日も晴。目覚めの前に、別れた女の夢を見た。メモのきれっぱしに、何か書いて僕に差し出すのを読もうとした。掲示板の管理が、などと書いてある、そこで目覚めた。
樟葉駅前の空があまりに広くてやりきれない。